椿説弓張月。関連書籍感想。原文・現代語訳・戯曲編

原文
影印本
現代語訳。4冊
戯曲

原文

『日本古典文學大系 60 椿説弓張月 上』滝沢馬琴/著 後藤丹治/校注 岩波書店 1958年
『日本古典文學大系 61 椿説弓張月 下』滝沢馬琴/著 後藤丹治/校注 岩波書店 1962年

椿説弓張月の原文としてはおそらくもっとも知名度・普及度が高いであろう。管理人は最初は近所の図書館に入っていたものを借り占めていたのだが、データベース作成の際に購入した。といってもすでに岩波書店に在庫があるわけではなく、インターネットの古書店サイトで注文した。

50年近く前に出版された文学全集なのに、ネット上の古本屋を探していたら函付き帯付き月報付きスリップ付きの美品と言っていい品物が北海道にある古書店サイトで上下巻セット2千円(送料別)で売り出されていた。掘り出し物を買った気分。

しかし昭和30年代の本でなので帯の文句が「世の読書子の机辺に送る」だの50ページ近くに及ぶ解説が既に古めかしい文体で、解読するのにちょっと時間がかかる。文体が古いのはともかく月報に書かれた解説の内容も古い(今では否定されている説が載っていたりする)

まあ解説の内容が古いのは馬琴研究がここ50年間で進んだという証拠なのだから良いのだが。でも月報に「私の曽祖父は馬琴の家の近所に住んでいたが気難しかったので本人には会えなかった」とか「幼い頃家には馬琴についての本が沢山あったが関東大震災と空襲で焼けた」とか書いてあったり、函入りの文学全集なのに一巻辺り650円で販売されていたりするのにはぎょっとする。50年というのはもうかなりの年数なんだよな。

内容は底本の表紙や見返しなども付いており、葛飾北斎の挿絵も完備してある。注釈が物凄い量でついているが弓張月の原文としては決定版ではないだろうか。

注釈と補注まで完備されており、原文と同時に読んでいると一体私は馬琴の代表的作品を読んでいるのか注釈を読んでいるのか時々疑問になるほどの細やかさである。ただし古文である原文だけ読むと時々意味の解らない箇所が出てくるため素人には注釈は必要かもしれない。ただしやはり50年前の研究結果であるためその辺は差し引いて読んでください。

影印本

『椿説弓張月 前編』 板坂則子編 笠間書院 1996年1月

『前篇』であるが、椿説弓張月は前篇・後篇・続篇・拾遺篇・残篇で構成されているため、もし完結したなら全5巻セットとなったのではなかろうか。

これは影印本である。つまり大昔に出版された馬琴の初版本を写真に取り製本・公刊したものだ。誰がこんな本を編纂したのかと思ったら板坂氏だった。納得。

江戸時代の本をそのまま写真に取っているため行書体の文字がとにかく読み辛い。これは葛飾北斎の挿絵を見開き状態で紙面一杯に楽しみたい人向けじゃないか?でも錦絵でない読本の挿絵を楽しみたいホクサイファンはどれだけいるのか・・・(この辺の事情は知らない)

現代語訳

『椿説弓張月 (学研M文庫) 』 平岩弓枝 学研 2002年5月

1981年に出版されたものの文庫化。一般向け現代語訳は椿説弓張月では唯一のものである。(追記━━管理人の勘違い。1980年代に山田野理夫氏による詳しい現代語訳が出版されている)

この本は文庫本一冊220Pに纏まった抄訳本である。しかし平岩氏の訳だけあり、前篇から残篇までの名場面を的確に拾い挙げた非常に読み易い本である。初心者にはお薦めだ。

実際私もこれから読み始めた。ただし1つだけ問題があり、この本は非常に読みやすく文量も少なくお手軽なのだがあまりにもお手軽すぎる。弓張月は八犬伝よりは巻数こそ少ないが、内容は30年に渡る大河ドラマである。それを文庫本220Pに纏めたものだから場面転換がめまぐるしく年月が飛ぶ飛ぶ。

特に琉球篇。あれはただでさえ原作でも一気に7年飛んだりするのに、それが抄訳ともなるともう初登場時14歳だったはずの寧王女がみるみる年を取っていくのは辛かった。私が年表をつくろうなんて思い立ったのも琉球篇の時系列の進み具合が把握できなかったからだ。

それでも改変や脚色は皆無なので、手軽に弓張月を把握しようと思ったらお薦めします。

『物語日本文学 第34 椿説弓張月』 藤村作訳編 至文堂 1935年

何と吃驚昭和10年の本です。国立国会図書館のOPACだと1954年出版でしたから多分それは再販でしょうね。県内の図書館の蔵書に有ったらしいので昭和10年の本を読む事ができました。

いざ読んでみるまで解らなかったのですが、この本は現代語訳でした。ただし昭和10年の時点での現代語訳なので旧字旧かなづかいです。しかも原作で全68回の所を全50回に減らしている上に、全1巻なので端折っている場面も多いです。著者自身が前書きで述べていましたが、琉球篇以降は例によってかなり省略されています。

ただし閲覧室でパラ見した感じでは特に意訳でも超訳でもないと感じました。

あまりにも古い本で入手は困難ですし別に逐次訳でもないし文体も戦前なので、あまりお薦めできるものではありませんね。

『椿説弓張月<上><下>』 山田野理夫訳 教育社 1986年

もしかして、と思ったら南総里見八犬伝を全8巻かけて現代語訳した人だった。ただ、八犬伝は今世紀に入ってから他にも詳細な訳が出版されているので細かい差異があるらしいこの人の訳は避けていた。訳を4種類も5種類も読むのは辛いんだ。

ただし弓張月で原作通りに全68回をそのまま現代語訳し、原作の挿絵も入れてあるのはこれくらいだ。細かい差異があるかどうかまではさすがにチェックしていないが、20年前の本ならまだ比較的入手し易いだろう。

もちろん本の表紙や前書きでは『現代語訳』と銘打っている。

それにしても昭和10年の“現代語訳”を読んだときは「これ読むくらいなら原文読むわ」という気分になったものだが、この本もあと50年くらい後の若い人からしたら読むのに苦労する本になるのだろうか。

『古典日本文学全集第27 椿説弓張月』 高藤武馬他 筑摩書房 1960年

この本と三島由紀夫の戯曲は最後に書いている。というか現代語訳ってこんなに種類あったんだ。

さて高藤武馬氏の著作は実は3冊目だ。私はてっきり再販だと思っていたが、内容は3種類とも違っていた。今回は大人向けの現代語訳である。

一回ごとに訳してあり、さすがに博覧強記の部分は削ったらしいが全訳だろう。大和篇も琉球篇も両方訳してある。

それにしても同じ古典小説をターゲット別に3回も訳すなんてすごいな。

解説では様々な人々の弓張月に関する解説を載せているが、如何せん昭和35年なので内容が古い。あれから48年経ったのだから進歩したと見るべきだろうが。

それにしても馬琴の評価が落ちている事を嘆いた文章の数々は隔世の感がある。今は明治時代とは違い馬琴の文章は完全に古典の域なので、私個人の見解を述べるなら現代の小説と異なるのは当たり前なんだよな。現代風の考え方が書かれた小説が読みたければ現代小説を読めっての。なんて言えるのも今が平成20年だからだろう。

戯曲

『三島由紀夫全集 決定版 25 戯曲』 三島由紀夫著 新潮社 2002年

三島由紀夫全集は全42巻で種類も様々である。確か早死にした人じゃなかったっけ?こんなに多作家だったんだ。

こんなに多いと
テストにおける珍回答
Q.夏目漱石の作品を3種類答えなさい。
A.夏目漱石全集<上巻><中巻><下巻>

みたいなネタは出来ないだろう。ちなみに今調べてみたら夏目漱石全集は大体2巻から4巻くらいらしい。

話は元に戻そう。この本は三島由紀夫が著した戯曲が色々入っており、椿説弓張月だけでなくオルフェやトスカや聖セバスチァンの殉教とかちびくろさんぼのようなものから普通の現代劇まで20種類くらい取り揃っている。椿説弓張月は歌舞伎として上映されたらしい。

戯曲の決定版だけで5冊もある為、発表年代順に収録されているのだ。ちなみに弓張月の発表は昭和44年(1969年)である。

個人的な話だが三島由紀夫全集は近所の市立図書館にある事がネットのOPACで解った。まさか先に借りる奴もいないだろうと思ったが、念の為にネット予約しておいた。
数日後、図書館に行く前に予約チェックをしたら順位が下がっていて「嘘!?三島由紀夫の長編や短編ならまだしも戯曲を読みたがる物好きなんかうちの市におるんか!?」と思ったら私だった。まだ取り置き手続きが完了していなかったらしい。

さて肝心の内容であるが、舞台用の台本だから児童書のようにはいかないので原作との差異は上げていくときりがない。特徴的なのは大嶋の場面から始まっていて、琉球篇もちゃんとやっている事かな。中山王子の台詞があれだけ多いのはこの本くらいじゃないか。

あとは如何にも舞台向きだと思っていた阿公と中山王子の今わの際の場面が充分に発揮されていたのが嬉しい。阿公のあの場面は個人的には好きなんだけど悉くカットされているのを残念に思っていたから。

そういや原作の椿説弓張月には八犬伝の古那屋の悲劇みたいな場面はあんまりないな。本当に阿公の今わの際くらいじゃないか?
八犬伝は「実は立ち聞きしていました!」や「今わの際なのに延々と長話」とかいう場面が結構あるけど。船が沈みかける時の為朝の博覧強記は個人的には気にならなかった。

というか為朝は八犬士ほど頭良くて理屈っぽいようには見えないから。後は八犬士はよく女嫌いって言われるよな。主人公側を徹底して善人に描くのは八犬伝も弓張月も変わらないが、だからと言って「為朝と八犬士は同じような人物か」と問われたら「いや、全然違う」と私は答える。

八犬伝の原作を読んだ直後だったから言える事だろうが、弓張月に八犬伝のような冗長さや回りくどさは殆ど感じなかった。