椿説弓張月人物辞典・年表。注釈

注1:登場人物辞典の人名の色分けについて。
注2:為朝二十八騎及び保元の乱の登場人物の省略について。
注3:「大和篇」という表記について
注4:為朝と簓江の間の3人の子供の年齢について。
注5:年表における大和篇と琉球篇の時間のズレについて。
注6:養和元年(1181年)の舜天丸の年齢。
注7:寿永元年(1182年)以降の為朝の年齢。
あとがき

注1:登場人物辞典の人名の色分けについて。

登場人物辞典では見出しとラベルをそれぞれ色分けしてあります。

まずは見出しは性別で分けています。男性キャラがブルー女性キャラがピンクです。人間以外のキャラは橙色にしてあります。

神様や仙童系のキャラは性別は橙色にしようかと思いましたが、普通にブルーとピンクで分けました。

ラベルの色分けは、主要な味方が緑味方が茶色敵が紫です。

椿説弓張月は、特に琉球篇以降は敵と味方がはっきり分かれているので色分けし易くて助かります。但し、保元の乱や平治の乱の頃の相当にややこしい皇室の勢力図などはかなりテキトーです。なので平安末期の日本史の専門家の方にはとても見せられる代物ではありませんが。

赤・茶色の色分けは完全に私の主観です。山雄・八代・高間太郎・磯萩を主要味方にするなら為朝の乳母子である須藤九郎重季や源九郎為仲や終盤で出番が多い林太夫も主要味方に色分けすべきかと悩みましたが茶色にしました。

追記━━やっぱり須藤九郎重季や源九郎為仲や林太夫も主要味方に色分けを変更しました。今は千歳をどうしようか悩んでいます。ただ千歳の場合はネタバレになりそうですからねえ。

椿説弓張月は重要そうなキャラがバタバタ死んでいくのでどの辺りが主要キャラであるのかの線引きが難しいです。為朝ですら続篇では殆ど出番ないですし。

敵ですが信西が為朝の手で倒せないのには驚きましたね。前篇・後篇は歴史物なので仕方の無い部分ではありますが。

大和篇と琉球篇では殆どキャラクター総入れ替えなので、出番の多い少ないで主要か否かを選別すると大変な事になります。まず白縫王女の扱いに困りますから。

注2:為朝二十八騎及び保元の乱の登場人物の省略について。

他は博識の引き合いに出される昔の人物以外で名前の有る人間は全員辞典に載せたのですが、保元の乱にだけ登場する人物だけは皆省略しました。

理由は椿説弓張月における保元の乱の扱いがあまりにも少ないからです。これはおそらく馬琴先生が自分の作品を既存の軍記物である保元物語の焼き直しになる事を避けたためでしょう。

しかしその結果椿説弓張月における保元の乱は岩波書店版で5ページ弱、戦闘シーンに至っては2ページ弱と超ダイジェストで保元物語を知らない人間が見たら何で為朝が落ち武者になったのかすらよく解らない状態です。

ポプラ社の児童書ではもう少し保元の乱について加筆してあったので何とか解ったのですが。

保元物語を読めばもう少し解るのかもしれませんが、しかし椿説弓張月では吉田兵衛・高間四郎ら保元物語の為朝二十八騎が国許に残ったという設定になったり紀平治が為朝二十八騎の中にいたりとオリジナルの要素が多く素人の筆者の手には負えません。

椿説弓張月においての保元の乱は「為朝が崇徳上皇側について負けて朝敵となった」くらいの扱いだと思い、あまり込み入った事を書くのはやめました。

詳しくはよろめき亭さんの旧館をご覧下さい。リンクページはこちらです。

注3:「大和篇」という表記について。

これは私の意図的な間違いです。馬琴先生は琉球以外の登場地域の事は「日本(やまと)」と表記しました。弓張月の年表はそもそも前後関係が上手く把握できなかった管理人自身の為に作ったもので、個人的には「日本篇」と表記すると琉球篇まで包括してしまう気がしてややこしいので「大和篇」と表記しました。

椿説弓張月は海洋小説ですが、舞台になったのは全部この21世紀では日本国内ですからね。

注4:為朝と簓江の間の3人の子供の年齢について。

『上巻 第十四回 P214 「簓江三年が程に三人の児を産て、」』とあるが、この3年間が一体何時なのかがちょっと解らなかった。

ちなみに為朝と簓江が結婚したのが保元二年(1157年)。それから14年後の嘉應二年(1170年)に長男の為丸が9歳で元服した。

つまり為丸は応保二年(1162年)の生まれになる。というより馬琴先生(この時代の?)の年数カウントは数え年式なので、簓江が結婚した年も含めて3年で3人産むには双子でも産まない事には無理だろう。

この文章を書くときに第十四回を読み返したのだが、てっきり馬琴先生のミスかと思ったけど私の思い違いかな?

私は最初、簓江は為朝と結婚した保元二年(1157年)から3年間で3人産んだのだと思った。でも元の文章を読むとどうも(任意の)3年間で3人産んだという意味かな。それならミスではない。

つまり為丸は応保二年(1162年)、朝稚は長寛元年(1163年)、嶋君は長寛二年(1164年)の生まれであり、一家離散した嘉應二年(1170年)の時点ではそれぞれ9歳、8歳、7歳だったという事だろうか。おそらくそれだろう。

注5:年表における大和篇と琉球篇の時間のズレについて。

正直なところ平岩弓枝さんの簡略な訳本を読んで、「大和篇と琉球篇の時系列に何か違和感があるな」と思ったのがそもそもの年表製作動機です。

いやもう本当どうしよこれ。まさかあの馬琴先生がこんな構成ミスをするとは思わなかったので頭抱えているんですが。むしろ私の方が間違っているんじゃないかと心配になります。

後年の作品である八犬伝はここまでやるかというくらいの水も漏らさぬ構成力で舌を巻いたくらいなのに、この時期の作品はまだ粗があるのでしょうか。

年表の方では私の間違いでなければ八犬伝では考えられないようなミスがあります。特に全く同じ期間のはずなのに大和篇では22年経っているにもかかわらず琉球篇では17年しか経過していないのは本気で困るとかそういう次元ではないです。

久寿二年(1155年)。為朝。鶴を探してやってきた琉球で廉夫人と寧王女に出会う。から
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安元二年(1176年)。矇雲のクーデター及び為朝と白縫王女再会。

までは大和の時間軸でいうなら間違いなく22年経っているはずです。

しかし琉球の時間軸でいうならこの間は17年しか経っていません。寧王女・廉夫人が中城(東宮)に押し込められてから7年後に真鶴の松壽の結婚。その10年後に矇雲のクーデターのはずです。

作中の表記ですが、

岩波書店版下巻第三十八回45P地の文。ひたすら子供を産もうとするもうまくいかない中婦君の描写「十あまり七年の春の梢はかはらねど、」=17年。

岩波書店版下巻第三十八回47Pの利勇の台詞「はや二昔に近き月日を」=まだ20年経っていない。です。

明らかに弓張月における大和と琉球では時間の進み方が違います。よって私の年表では寧王女の年齢は琉球時間(大和時間)という風に併記していますが、作中内においては琉球時間の年齢の方が正しいはずです。

ちなみに大和時間において久寿二年(1155年)から17年後は嘉應二年(1170年)です。伊豆大嶋に軍勢が攻めてきて歴史上の為朝はここで討ち死にした事になっている年です。弓張月の英雄為朝は生き延びてこの年の年末に白縫・紀平治と再会します。

翌年に舜天丸が生まれるのでまだ琉球に漂流するには時期尚早ですね。

尚、このサイトでは久寿二年から安元二年までの間に22年流れている場合を『大和時間』。17年流れている場合を『琉球時間』と表記します。

こんな代表作での大ミスは馬琴先生の研究者さんの間ならきっと色々と取り沙汰されているでしょう。研究者さんの間では一体どんな呼ばれ方をされているかは私は知りません。

でもこれは何だか私の方が間違っている気もします。自信がありません。

注6:養和元年(1181年)の舜天丸の年齢。

養和元年の舜天丸の年齢は舜天丸11歳(白縫王女曰く12歳)と表記した。

『下巻 53回 P217 において白縫王女の心のうちでは「もし世にあらばこの春は、年は十二になるべきに。」』とあるのがその根拠だ。
 しかし養和元年の舜天丸の年齢は計算上は11歳のはず。ここは単に白縫王女の思い違いだろう。

注7:寿永元年(1182年)以降の為朝の年齢。

寿永元年における為朝の年齢は、『下巻 第五十七回 286P 巴麻島の仙童によると「為朝四十三歳」。』

大和時間通りに考えるとこの年は為朝44歳のはず。しかし仙童の正体からしてまさかここで間違えないだろうと思い、ここで為朝の時間が一年戻ったと解釈した。

為朝と、彼と同い年の白縫はこの時点で43歳。これ以降はこの基準に従う。尚、寧王女の年齢は戻していないため大和時間で考えるなら為朝と白縫王女はここからは同年齢になる。しかし琉球篇のキャラは琉球時間に沿っていると思われるため、ここでの寧王女は37歳だと思われる。

尚、大和時間のキャラでも舜天丸は折に触れて年齢が書かれるのでここで一年戻してはいない。

あとがき

人物時点と年表は最後の方になると愚痴が多くなっていて申し訳ありません。

それにしてもこれを更新すれば一ヶ月半筆者の部屋に陣取っていた弓張月一式(内訳ノート3冊(年表用・人物辞典用・メモ用)と児童書と原作本を2巻ずつと電子辞書と筆記用具と年表計算や構成表に使った用紙と書籍の広辞苑)が乗った四角いちゃぶ台が片付けられます。書籍の広辞苑だけはさすがに片付けましたが、用紙の量が増えて増えて。

サイトの構成表や下書き用紙は資源回収に出すとして、年表計算に使った用紙はノート3冊と一緒に残しておきましょう。何だか自分の換算が合っているという自信がわかないんですよね。

最後に。

関連書籍紹介はまた別記設ける予定ですが、

三田村信行氏。児童書で弓張月を著してくださりありがとうございました。特にこの本が無ければ私は保元の乱の記述は意味が解らなかったと思います。

岩波書店。椿説弓張月を挿絵全収録で復刻してくださりありがとうございます。また昭和30年代の本にも拘らず美品状態の本を安価で売って下さった北海道の古書店さん。そして東海に住む私に北海道の書店が利用できる環境を整えてくださった古書店総合サイト。

フリー百科事典ウィキペディアの日本の年号一覧の項目

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29

玉部の項目

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%83%A8 参照年月日:2007年10月10日

ここの例字一覧か無ければ、玻琳王(はりんわう) なんて漢字は出せませんでした。

あと控えは取っていないのでURLが書けませんが、変換辞書に載っていない旧字体はヤフーかグーグルで検索して出しました。

八犬伝のときも思いましたが、素人が古典を読もうとしたら意外とネット時代の恩恵を享受するものですね。特に私の場合だとネットで八犬伝の存在を知りましたし、私の馬琴作品ライフは常にネットと共にありました。

といっても封神演義の時みたいに訳者オリジナル設定がデフォルトになっているような古典だと困りますが。

そして、何より古典となるべき面白い作品を後世に残してくださった馬琴先生と、ここまで読んでくださった方に感謝して終わりにします。

追記━━少し変更。というより注釈をトップページに更新するのを忘れていた。データベースとしては致命的なミスだ。