南総里見八犬伝簡易年表~八犬士の年齢を中心に・前半

年表というよりも、作中である出来事が起こった際に八犬士は一体何歳だったかについての個人的な覚書です。八犬伝は作中で何年も過ぎるので、犬士が今何歳なのかは読んでいて解り辛いという気持ちから作りました。 個人的な覚書ですので満年齢で表を製作します。括弧内は数え年です。

筆者が知る限りでは丸屋おけ八氏の全訳本でのみ満年齢を用いてありますが、八犬士のほぼ全てが下半期生まれですので正確とは言いがたいです。ですからこの表こそが真の満年齢表ということになるでしょう!(誰も気にしないから作らないだけ)

まずは八犬士の生年月日一覧です。

・犬山道節  1459年(長禄三年)9月戊戌の日生(晩秋)
・犬飼現八  1459年(長禄三年)10月20日生(冬)
・犬田小文吾 1459年(長禄三年)11月某日(冬)
・犬川荘助  1459年(長禄三年)12月1日(冬)
・犬塚信乃  1460年(寛正元年)7月戊戌の日生(初秋)
・(犬村大角 1460年生月日不明)
・犬坂毛野  1465年(寛正六年)12月某日(冬)
・犬江親兵衛 1475年(文明七年)12月某日(冬)

*1.これは旧暦であるため12月生まれの荘助・毛野・親兵衛はグレゴリオ暦でいうならば翌年の初めの生まれになるそうです。
*2.なお生月日不明の大角に関しては、筆者の個人的思惑により12月生まれにします。ここでしか見られない設定ですので、どうか本気になさらないようにお願い申し上げます。
*3.雛衣や孝嗣なども満年齢は数え年のマイナス2歳としておきます。ここでしか見られない(以下同上)
*4.西暦を使う場合は新暦の日付を使うのが正式なのだそうですが、そんな難しいことは解りませんので原作中の日付を使います。ご了承ください。

1477年(文明九年)八犬士列伝本格スタートの前年までの表です。列伝開始後の年表は後半へ

1459年(長禄三年)
9月戊戌の日(19日)道松誕生*1
10月20日玄吉誕生 産後の肥立ちが悪く母子ともに病気に
11月某日小文吾誕生
12月1日荘之助誕生
1460年(長禄四年・寛正元年)
同年中玄吉の母死亡現八生後9ヶ月前後(2歳)*2
7月戊戌の日(24日)信乃誕生*1
同年中角太郎と沼藺誕生*3
1461年(寛正二年)
八犬士関係では特になし
1462年(寛正三年)
1月正月(浜路)誕生
同年中雛衣誕生
1463年(寛正四年)
春の末道松母子殺害される道節3歳(5歳もしくは6歳)*4
22日後道松蘇生。道松の妹正月、大塚夫婦の下へ里子に。浜路と改名。浜路1歳(2歳)
同年中毛野の母懐妊
同年中河鯉孝嗣(のちの政木大全)誕生*5
この年かその前辺り素藤が伊吹山から逃走。翌年館山城主に。*6
1464年(寛正五年)
10月2日赤岩一角(本物)庚申山に登ると言い出す
10月3日翌日 一角、弟子を連れて登山 1人で深山に行き化け猫に食い殺される大角3歳(5歳)
10月4日そのまた翌日 一角(偽者)下山
11月窓井、牙二郎を懐妊
同年中政木狐、河鯉孝嗣の乳母に*5
1465年(寛正六年)
8月牙二郎誕生 偽一角による角太郎への虐待が始まる。同年中に角太郎、犬村家へ養子に大角4歳(6歳)
9月11日荘之助の父自害。その直後、犬川家断絶。犬川母子、安房へ流浪
11月粟飯原家断絶 毛野の母調布、追放
11月29日荘之助の母凍死荘助5歳(7歳)
翌朝荘之助 額蔵の名で大塚家の小者に荘助6歳(7歳)
12月毛野誕生
1466年(文正元年)
同年中里見家一の姫、靜峯姫誕生
この年か翌年毛野と調布 女田楽に雇われる
1467年(文正二年・応仁元年)
政木狐、孝嗣の元を去る孝嗣3歳(5歳)*5
同年中里見家二の姫・城之戸姫、三の姫・鄙木姫誕生
1468年(応仁二年)
10月下旬信乃の母手束死亡、享年数え43歳信乃8歳(9歳)
同年中里見家四の姫・竹野姫、五の姫・浜路姫誕生*7
1469年(文明元年)
同年中里見家六の姫・栞姫、七の姫・小波姫誕生
1470年(文明二年)
同年中額蔵、行婦塚を建立する(建立させる)荘助10歳(12歳)
3月番作自害信乃9歳(11歳)
3週間後信乃と額蔵、義兄弟の契りを結ぶ信乃9歳(11歳) 荘助10歳(12歳)
同年中里見家八の姫・弟姫誕生
1471年(文明三年)
3月信乃と額蔵、文字の浮き出た八房の梅の実を発見信乃10歳(12歳) 荘助11歳(13歳)
1472年(文明四年)
省略
1473年(文明五年)
省略
1474年(文明六年)
省略
1475年(文明七年)
沼藺嫁ぐ
年の瀬真平誕生小文吾16歳(17歳) 沼藺15歳(16歳)
1476年(文明八年)
省略
1477年(文明九年)
京都方面では応仁の乱終結
角太郎元服、雛衣と祝言大角16歳(18歳) 雛衣14歳(16歳)
春~夏頃見八の養父母死去、喪が明けた後に養父の役職を継ぎ飛脚に現八17歳(19歳)
7月22日見八の実父糠助死去
毛野の母調布死去 毛野、武芸を独学し始める毛野12歳(13歳)
1459年(長禄三年)
9月戊戌の日(19日)
道松誕生*1
10月20日
玄吉誕生 産後の肥立ちが悪く母子ともに病気に
11月某日
小文吾誕生
12月1日
荘之助誕生
1460年(長禄四年・寛正元年)
同年中
玄吉の母死亡。現八生後9ヶ月前後(2歳)*2
7月戊戌の日(24日)
信乃誕生*1
同年中
角太郎と沼藺誕生*3
1461年(寛正二年)
八犬士関係では特になし
1462年(寛正三年)
1月
正月(浜路)誕生
同年中
雛衣誕生
1463年(寛正四年)
春の末
道松母子殺害される。道節3歳(5歳もしくは6歳)*4
22日後
道松蘇生。道松の妹正月、大塚夫婦の下へ里子に。浜路と改名。浜路1歳(2歳)
同年中
毛野の母懐妊
同年中
河鯉孝嗣(のちの政木大全)誕生*5
この年かその前辺り
素藤が伊吹山から逃走。翌年館山城主に。*6
1464年(寛正五年)
10月2日
赤岩一角(本物)庚申山に登ると言い出す
10月3日
翌日 一角、弟子を連れて登山 1人で深山に行き化け猫に食い殺される
10月4日
そのまた翌日 一角(偽者)下山。大角3歳(5歳)
11月
窓井、牙二郎を懐妊
同年中
政木狐、河鯉孝嗣の乳母に*5
1465年(寛正六年)
8月
牙二郎誕生 偽一角による角太郎への虐待が始まる。同年中に角太郎、犬村家へ養子に。大角4歳(6歳)
9月11日
荘之助の父自害。その直後、犬川家断絶。犬川母子、安房へ流浪
11月
粟飯原家断絶 毛野の母調布、追放
11月29日
荘之助の母凍死。荘助5歳(7歳)
翌朝
荘之助 額蔵の名で大塚家の小者に。荘助6歳(7歳)
12月
毛野誕生
1466年(文正元年)
同年中
里見家一の姫、靜峯姫誕生
この年か翌年
毛野と調布 女田楽に雇われる
1467年(文正二年・応仁元年)
政木狐、孝嗣の元を去る。孝嗣3歳(5歳)*5
同年中
里見家二の姫・城之戸姫、三の姫・鄙木姫誕生
1468年(応仁二年)
10月下旬
信乃の母手束死亡、享年数え43歳。信乃8歳(9歳)
同年中
里見家四の姫・竹野姫、五の姫・浜路姫誕生*7
1469年(文明元年)
同年中
里見家六の姫・栞姫、七の姫・小波姫誕生
1470年(文明二年)
同年中
額蔵、行婦塚を建立する(建立させる)。荘助10歳(12歳)
3月
番作自害。信乃9歳(11歳)
3週間後
信乃と額蔵、義兄弟の契りを結ぶ。信乃9歳(11歳)荘助10歳(12歳)
同年中
里見家八の姫・弟姫誕生
1471年(文明三年)
3月
信乃と額蔵、文字の浮き出た八房の梅の実を発見。信乃10歳(12歳)荘助11歳(13歳)
1472年(文明四年)
省略
1473年(文明五年)
省略
1474年(文明六年)
省略
1475年(文明七年)
沼藺嫁ぐ
年の瀬
真平誕生。小文吾16歳(17歳)沼藺15歳(16歳)
1476年(文明八年)
省略
1477年(文明九年)
京都方面では応仁の乱終結
角太郎元服、雛衣と祝言。大角16歳(18歳)雛衣14歳(16歳)
春~夏頃
見八の養父母死去、喪が明けた後に養父の役職を継ぎ飛脚に。現八17歳(19歳)
7月22日
見八の実父糠助死去
毛野の母調布死去 毛野、武芸を独学し始める。毛野12歳(13歳)

*1.戊戌の日生まれの道節と信乃の誕生日は、碧也ぴんく氏の八犬伝3巻のおまけページの記述に沿った。

*2.
以降、糠助と玄吉の生活は困窮し禁漁・追放・放浪・入水未遂となるわけだ詳しい日時は不明。ただし以下のことは判明している。

・糠助が追放罪に減刑されたのは伏姫・五十子の三回忌の大赦のおかげ。故に7月である。
・玄吉が古那屋に預けられたのは小文吾誕生の翌年。故に上記の苦難はすべて1460年中の出来事である。
・見兵衛が玄吉をもらい受けた後、古那屋に預けて迎えに来るまでは約一月。

*3.大角に関しては、雛衣が享年19歳であることから計算して寛正元年生まれであると思われる。明確に寛正元年生まれと書かれた記述はない。庚申山編の時系軸は全て大角より2歳下の雛衣の享年が19歳であるところから計算した。また沼藺は年子の兄が11月生まれなので年の瀬生まれであると思われる。

*4.計算上は道節が満3歳(5歳)の出来事になるが、第二十八回で道節は繰り返し「当時は自分は6歳だった」といっている。どちらが正しいかは解らない。

*5.政木大全孝嗣の生年については第百十五回に「廿歳計の後生也(はたちばかりのわこうどなり)」という記述による。1483年(文明十五年)の八犬士具足の年に数え20歳ならば1463年(寛正四年)の生まれのはずである。ただ「20歳くらいに見える」という言い方なので正確な生年ではない。

*6.素藤の来歴について。素藤が伊吹山から逃げ出し、翌年館山城の主となったのは何年の出来事かは書いていない。しかし第九十八回でさんざん素藤父の悪行と水子談義が続いた後に素藤本人の来歴が入る。それによると「今茲二十一歳也。」
第百回の最後、妙椿に浜路姫の姿を映し出され惚れ込むも年齢を気にする場面がある。それによると「我身の齢良傾きて、既に四十の数に入りぬ」
なので素藤の栄華は20年続いたとして1463年(寛正四年)とした。もちろん数年前後するだろうが大きくは変わらないだろう。しかしこうなると素藤は意外と長期間城主をやっていたんだなあ・・・。

*7.五の姫浜路誕生に関しては2種類記述がある。甲斐物語では1466年誕生で靜峯姫と同じ年。しかし最終的には1467年か68年の生まれとなる。
姉妹誕生のかね合わせも考えると1468年に竹野姫とともに生まれたと考えるのが自然か。 尚、鷲にさらわれたのは数え2,3歳のときの九月下旬。