・鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月。の児童書を出版年代別に並べた。
・年代別一覧表に関する所感。
・『復興する八犬伝』などの論文や研究本の中においての玉梓。
・八犬伝再話作品の中における玉梓。
・八犬伝再話作品内の女性キャラとジェンターフリー思想に関する個人的な考え。
・あとがき
鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月。の児童書を出版年代別に並べた。
1950年代
『少年少女日本名作選 弓張月物語』 山中峯太郎著 誠文堂新光社 1953年 琉球篇無し
『少年読物文庫 弓張月 鎮西為朝外伝』 渋沢青花著 同和春秋社 1954年 琉球篇有り(ただし27P)
『世界名作全集71 弓張月』 高野正巳著 講談社 1954年 琉球篇無し(鶴と珠の交換話すら作中作扱い)
『弓張月』 彩田あきら著 鶴書房 1955年 琉球篇有り(かなり改変してるが)
『名作物語文庫30 弓張月物語』 平井芳夫著 講談社 1955年 琉球篇無し
『小学生全集62 為朝ものがたり』 高藤武馬著 筑摩書房 1955年 琉球篇有り
『世界少年少女文学全集44(日本編4)』 林房雄著 創元社 1956年 琉球篇無し
『児童文学全集59 為朝ものがたり 朝島靖之助著 偕成社 1957?67?年 琉球篇無し
『少年少女日本名作物語全集19 弓張月』 塚原健二郎著 講談社 1958年 琉球篇無し
1960年代
『少年少女のための国民文学24 椿説弓張月』 松尾靖秋著 福村書店 1961年 琉球篇無し
『私たちの日本古典文学23 弓張月・里見八犬伝』 鈴木重三著 さ・え・ら書房 1963年 琉球篇有り(ただし6P)
『少年少女世界の名作文学46(日本編2)』 筒井敏雄著 小学館 1965年10月 琉球篇無し
『少年少女世界の名作53 弓張月』 福田清人著 偕成社 1965年 琉球篇有り(続篇以外を1冊に納めている)
1970年代
『為朝物語ー椿説弓張月』 高藤武馬著 春陽堂書店 1977年 琉球篇有り
2000年代
『新編弓張月 <上> 伝説の勇者 <下> 妖魔王の魔手』 三田村信行/文 金田栄路/絵 ポプラ社 2006年10月上巻12月下巻 琉球篇きっちり有り
年代別一覧表に関する所感。
1.1977年の高藤武馬著は同じ古典小説をターゲット別に3回も訳すなんてすごい事をしている著者の本だ。だからそれを抜かして考えると、1965年から2006年まで児童書は41年間も出版されなかったのか!?
八犬伝の児童書は定期的に出版されているのに、弓張月は時代が下がるにつれあからさまに減っているのが解るな。
2.1954年・1955年・1958年に講談社は3回も弓張月児童書を発行している。1958年版は解説はなんと麻生磯次氏。氏と児童文学者と作家の3人が監修についているというなかなか気合の入った作りだ。ちなみに挿絵も綺麗だった、
しかし1954年・1955年版はオリジナル要素が入っている上にそのオリジナル部分の要素がかなり被っているのは、その時の講談社に一体何があったのだろう。
3.東海地方在住の私がこれだけ古い本を読む事ができるのは図書館の相互貸借制度を利用しているからだ。
しかし今近所の図書館は5ヶ月も閉まっている。おのれ。こんなに長期間使えなくなると馬琴作品以外でもかなり色々困るのだが、弓張月の相互貸借の申し込みは何とか間に合った。ハイスペースでやっていて良かった。まあ児童書は全部読んだし、普通の再話作品で琉球篇があるのは多分なさそうなのでもういいや。
私はあくまで琉球篇目当てだもの。
4.図書館の相互貸借制度を利用するまでは良いが、申込用紙に記入するのが『少年少女日本名作選 弓張月物語』『世界名作全集71 弓張月』『世界少年少女文学全集44(日本編4)』『少年少女日本名作物語全集19 弓張月』『少年少女世界の名作文学46(日本編2)』『少年少女世界の名作53 弓張月』と続くとなあ。微妙に全部違うのが凄いんだが、かえって解りづらい気もした。でもタイトルと原作者は一緒だから著者名と出版社名だけだと心配なんだよ。
ちなみに八犬伝の児童書を借りまくっていた時は似たようなんだけれども全部微妙に違う少年少女全集のタイトルはもっと凄かった。
ああ、図書館の相互貸借制度は私は1回に付き3冊までと自分の中で決めているので、そこまで司書さんに迷惑はかけていないと思う。多分、きっと。
『新編弓張月 <上> 伝説の勇者 <下> 妖魔王の魔手』というサブタイトルでコーエーだかコナミだがが出している無双?バサラ?みたいな若武者の為朝はこの中では浮いているが、半世紀も経てば子供向けへのセンスも変化するだろう。
5.沖縄返還は1972年(昭和47年)。だから私は最初は琉球篇が無いのは自主規制かと思ったんだが、昔の本が多いし皆さん普通の軍記物が大好きらしいので、多分自主規制とは関係ないのだろう。
それにもし関係あったらまず2006年出版の児童書に琉球篇と実在の上皇が魔道に入る話が無くなるよな。でも前に書いたけれど、今の時代沖縄代表をヒール役にしただけでネット上ではとんでもなく叩かれる例を見たから、つい。
でもあの場合は絶対にそこら辺の不良漫画の登場人物の方が悪人だと思うのだが、メジャー誌の中学生テニス漫画のキャラは敵味方問わずある意味八犬士並みに品行方正さが要求されるから……。
本題に入ると、この程度でいちいち自主規制していたらその内児童書に沖縄の事は、かつてのかたわ者や流浪の民みたいに存在すら許されなくなりかねんので、その学生スポーツ漫画の関連物と『新編弓張月』できっちり書いてくれたのは良かった。
47都道府県の一つがそんな扱いになるのはおかしいし、存在すら許されなくなるのははっきりいってそっちの方がよほど差別だ…、とか書いたら「この差別主義者め!」とメールが来るらしいので書かない。
6.椿説弓張月関係の本のうち2種類は北海道の本屋や図書館から取り寄せてもらった。沖縄についての本を北海道から入手すると何となく信憑性が落ちる気がするのは私の気のせい。きっと気のせい。
日本ってネットと宅配便のおかげで狭くなったよな。弓張月の琉球や、一部の児童書の島々なんて完全に「何処の国?」って感じなのに。
7.私は八犬伝では素藤編~八犬具足以降が好きで、京物語が大好き。八犬士列伝よりも対管領戦派だ。椿説弓張月も既存の軍記物を下敷きにしている大和篇よりも馬琴先生の本領発揮である琉球篇の方が好きだ。
でも八犬伝の後半が評価され始めたのはかなりの近年なんだよね。半世紀前の児童書の著者達も保元物語が好きな人が多かったから、ファンタジー要素の強い琉球篇はあまり興味無さそうだった。
だから琉球篇がここまで少ないんだろうなあ。それに大和篇だけで終わらせると短いので児童書の中にも充分納まってしまう。
だから児童書を読むにしても八犬伝の児童書のように「この作者はあの長い原作をどう料理しているのかな?」というのを見物する楽しみはちょっと薄かった。秀作が多いんだよねえ。八犬伝のようにぶっ飛んでいたり、微妙にオリジナルを入れて省略が不自然でない内容にさせたり、「これ知らん人は解らんだろ」というような思いっきりダイジェストにしたりというのが少ない。
そういうのは何種類も読んでいると飽きてくるので、上手いタイミングで面白い児童書にめぐり合ったら嬉しくなる。
『復興する八犬伝』などの論文や研究本の中においての玉梓。
話は変わるけれども『復興する八犬伝』を読んだ。図書館が5ヶ月も閉まっているため今手元に無いので正確な引用は出来ない記憶頼みなのは許してください。
『復興する八犬伝』は八犬伝に関する各種の論文を載せている。テーマも様々であり、その上同じテーマを扱っていても全く違った論調になっているものもある。それくらいこれは新たな馬琴研究の為の、自由な、そして新しい論文集なのだろう。
ちなみに同じテーマを扱っていても全く違った論調になっている例で、一番解り易いのは玉梓だな。物凄く砕いて書く。
1.玉梓は作品全般に通じて呪いを放っている。船虫も勿論玉梓傘下だ。玉梓の呪いが消えたのは作品の最終盤の対管領戦後の施餓鬼かあるいは20年後の八犬士の痣が消えた時だ。
2.八犬伝内における玉梓の呪いの範疇をよく読んでみたら、彼女はそんなに大した事はやっていないんじゃない?
私は2番派だな。1番と主張するとつまり馬琴先生と役の行者の使者はわざわざ嘘をついていることになる(八房は玉梓の生まれ変わりだからと彼らは言っているから)。
文学研究に関しては素人に弩級が付く私が口を挟むのもなんだが“嘘をついている”という証拠を持ってくるのは大変だと思うな。私には無理だから素直に2番派。
どこかで「悪女である玉梓が、大輔と共に八犬士の父であり里見家に対して武功を上げる雄犬の忠犬になるのは“不自然”」とだけを証拠にあげている人がいたが、それは無いだろう!
とにかく私は玉梓はさっさと八房に生まれ変わって伏姫の尻に敷かれている派。玉梓本体は大輔が川を渡る時の役の行者と一緒の挿絵で伏姫の功徳により解脱していると思っている。それに玉梓がやった呪いって原作だとせいぜい3つくらいじゃないか?
玉梓の呪いの余念である狸と妙椿まで範疇を広げたとしても、八犬士の中では親兵衛1人としか関わっていないからなあ。原作をそのまま読めばそうとしか読めないよ。
八犬士全員に八房とは関係の無い玉梓そのものの呪いがかかっているなんて、訳本や原作から入った人でそう思う人は100人中何人いるの?
私は再話作品から入った組ではないから、玉梓や大塚村の浜路や網乾左母二郎や(たまに船虫)の扱いには違和感があるんよなあ。
そりゃ100年後の知己を待っている馬琴先生だし?もしかしたら本当に玉梓がもっと作品全編を覆うような呪いを発動していたのかもしれない。それが解るのは100人中何人いるのか。
そういうのが100年後の知己を待つのであり、文学研究なら私は何も言えませんが。
文学研究に関しては素人に弩級が付く私だから「玉梓は実は原作内でもこんなに凄い強い呪いを持った悪女なんだよ!」と言われても「じゃあ何で馬琴先生と役の行者の使者はわざわざ嘘をついているの?つーか私バカだから幾ら論文や研究書を読んでも解んないわ。あんな出番の少ない、すぐに八房に転生するキャラがそんなに大物だと言われてもさあ」
大輔に匹敵する八犬士のもう一匹の父親で里見家落城を救ったキャラに転生する時点で玉梓は充分大物なんだから、そこまで悪女にしたがる人たちの気持ちはバカな私には解らない。
つーか馬琴先生や原作本文が嘘をついているっていう前提の元の上に大した証拠をいらないなんて、これは別の事でももう幾らでも好き勝手な事が言える気がする。喩えるなら10年位前に流行ったワイドショーみたいな感じの童話解釈本バリに。あれが“初版そのままの陰惨な童話の世界を伝えている本”になれるなら鎌田版や角川映画版も馬琴先生直筆草案を元にした本になれるわ。
私は童話が好きなのでああいう本も図書館に入っているのは困った。「赤い靴が書かれた時代のデンマークの情勢を考えると作者は足フェチだったんだよ!」と書かれたのをお目にかかった時は、もしここが公共の場所でこの本が公共の物でなかったら床に叩きつけてたかもしれない。
それとも実は本当はちゃんとした証拠があって、ただ単に玉梓研究論文が理解できない私がバカなのか?
でも、解り易さが求められる人形劇や映画やTVドラマみたいな再話作品ならまだしも、南総里見八犬伝原作でそこまで解り易い大魔王を設定する必要は無いんじゃないかと言う素人考えを書いてみる。
原作南総里見八犬伝の悪は、そんな解り易い女大魔王ではないでしょう。
繰り返すが私は『八犬伝内における玉梓の呪いの範疇をよく読んでみたら、彼女はそんなに大した事はやっていないんじゃない?』派
玉梓の呪いの範疇を分析するあの論文はスッキリしたわ。ああ私と同じ考えの論文がちゃんと『復興する八犬伝』に載っているよって。
悪女と言ったら玉梓とは何の関係も無い(としか私には読み取れない)船虫の方がよっぽど悪女だし、しかも彼女は物語としては前半で死んでいる。
八犬伝は伏姫神女があまりにも強大なので、弓張月の白縫や寧王女みたいな魅力的な女性キャラの数が少ないと思う。
このまとめを書いている筆者は女性キャラが嫌いなのかと思われるかもしれないが、もちろんそんな事は無い。
弓張月の女性は敵も味方も大好きだ。八犬伝の女性は玉梓や大塚村の浜路(あとたまに船虫)辺りが原作の出番や役柄のわりに二次作品では幾らなんでも毎回々々持ち上げられ過ぎなのが鼻についているだけで嫌いじゃない。原作だと重戸や於兎子辺りが特に好きかな。
八犬伝再話作品の中における玉梓。
ここからは再話作品の話をする。
はっきり言って論文の玉梓持ち上げはまだ良い。あくまで「隠された呪い」扱いであって、玉梓が解り易い女大魔王である事が前提ではないからだ。
再話作品でも児童書だと玉梓の存在をあっさりカットしている物が多いけどね。玉梓は伏姫が産まれる前に死んでいるから、里見家落城から始まる児童書ならいなくても話は成り立つ。
しかし大人向けの再話作品になると途端に話が変わってくる。八犬伝の女性は玉梓や大塚村の浜路(あとたまに船虫)辺りが原作の出番や役柄のわりに二次作品では幾らなんでも毎回々々持ち上げられ過ぎなのが鼻につく。
まずは大塚村の浜路の方だが、こっちはいないのはよほどの幼児向けで1,2回しか見たこと無い。
八犬伝二次作品で大塚村物語を30回くらい(もっとかな?)読むとそろそろ「浜路ってここまで必須のキャラなのかなあ。親兵衛・毛野・大角が消されても浜路はいるし」と疑問になってくる。
雛衣はTBS正月ドラマみたいに大角に無茶を言えばいいからたまにはいない時があるし、玉梓が消されるのは児童書では珍しくないのだが、本当に浜路がいない信乃の物語は1回くらいしか見たこと無い。
ああ、サクラ大戦の八犬伝では浜路はいなかったな。サクラ大戦の八犬伝自体も大好きだが、浜路がいなかったのがかなり目新しかった。まあ美少女ゲームの舞台化の劇中劇なので七犬士の性別がはっきりしないというのも大きいけど。
大塚村の浜路は原作だと結構あっさり退場するから白縫や寧王女ほど絶対必須のキャラとも感じないんだよなあ。もちろん個人的な話だが。
たまには浜路が大して動かない大塚村物語を読んでみたい。
あとこれはいわゆる現代的な感覚って奴なのかもしれないが、明治時代の学生達が浜路くどきを読んで男女の別れと切ない恋愛を読み取って共感したという話の証拠は何処で読んだっけ?
明治時代なら知らんが現代女性(少なくとも1980年以降生まれの女性)の中の更に原書八犬伝を読めるくらい学or根性のある人で、浜路くどきを読んで「信乃と浜路は相思相愛なんだわ!」と思う人は、一人もおらんとは言わんがかなり珍しい存在だろうなあ。
色々置いておいて少なくとも信乃は、浜路が代官と無理やり結婚させられそうになっているのを全部知っている上で自分の孝を優先させている訳で…。信乃は孝の犬士だから彼の行動には特に腹は立たないけれど。こういうのを理想の王子様と思う現代女性はあまりいないと思う。
というか信乃は孝の犬士だから、彼を孝から外そうとする輩はおそらく誰であっても「お前は宿世の仇か!」なんだと思う。ちなみに犬士仲間は最初からそんな彼を孝から外すような行動はしないに決まっているから除外。
そもそも冷静に考えてみると、信乃って何でそこまで浜路の事を好きになる必要性があるんですかね?信乃は荘助と2人で村人を欺く生活をしている訳だし、自分の本家を乗っ取った庄屋の娘を出世思考バリバリの孝の犬士・信乃が何故恋をする必要があるんですか?
いや、「無理やり酷い代官と結婚させられそうになっている。可哀想」くらいは思っても良いかもしれませんが(実際は「女は水物発言ですが)、恋をする必要までは無いでしょう?
糠助は信乃と荘助の事は知っていたかも。ちなみに再話作品では浜路も信乃と荘助の本当の関係は知っていたと言う設定が多いが、原作ではそんなそぶり欠片もないです。
一つ屋根の下で暮らす美少女には絶対に惚れないといけない法則でもあるのかもしれませんが、安っぽい恋愛ドラマじゃないんだから。だから浜路はともかく、何故信乃が浜路を好きになる必要があるのかさっぱり解りません。
ついでに言やあ『一つ屋根の下で暮らす美少女には絶対に惚れないといけない』という掟に荘助まで引っかかって、何故かあの女嫌いで閉塞的な犬士同士である信乃と荘助がたかが女如きで争うという凄い再話作品もあったっけ。
でも研究によると、信乃は『1.浜路と相思相愛説(スタンダード)と2.荘助とその手の関係(江戸時代だから説)』がある。これを両方とって信乃の大塚村時代の恋愛関係が凄い事になる大塚村物語なら読んでみたい。
いや~、明治時代の恋愛感覚ってよく解りませんね。
そりゃ信乃は甲斐物語以降は大塚村の浜路の事も回想で気に掛けていたけれど、大塚村の浜路と里見の五の姫浜路は性格が違うからな。前者はかなりの烈女。後者はお姫様だ。信乃にとっては後者の方が結婚相手としては気安かったと思う。
ええと、すみません。玉梓の話です。
玉梓が解り易い女大魔王である事が前提で彼女を(あるいは妙椿や素藤を)倒せば全て解決!というのは確かに解り易い。特に映像作品では時間も限られているし、そういう再話作品もありだと思う。
ただ、個人的な話だがそういうのは原作の再話作品というより人形劇の亜流だと思う。再話作品から入った組ではない私には、とても原作とは同じ作品とは思えない。
何で原作ではさっさと八房に転生して伏姫の尻に敷かれるキャラが、伏姫のシンメトリー的な悪女にまでパワーアップしているんだ?しかも何故その作品のファンの一部はその設定が絶対だとか、その設定が馬琴先生の遺志を継いでいるとか言いだすんだ?
「俺は・私は原作を読んだがこの展開は…」と一席打つ人はTBS正月ドラマの頃は多かったが、こっちから見ていると
「ああ、この人は鎌田版が原作だと思っている」
「この人は薬師丸ヒロインの映画が原作だと思っている」
「これは人形劇版か」
「こっちは山田風太郎版しか読んでねぇな」
「この人は出版社の工作員か?何故そこまで『碧也版が原作の忠実な漫画化!違う部分は馬琴先生の遺志を継いでいるから!』とか無茶言っているんだ?」
とか思うんだよなあ。最初は真面目に相手していたけど、そのうち面倒くさくなってやめた。
3つだけ言わせてもらうと、
1.まず検索を掛けて研究や解説ページを探せ!
2.図書館へ行け!交通費以外はタダだ!
3.原作は超長編の古典だから読んでいないのは恥ではない。でも読んだふりをして場を荒らすのはどうかと思う。
お願いだからパソコン持っているなら自分である程度は調べてくれと思った。白龍亭の入門編を流し読みするだけでも大体の事は解るだろう。あといきなり「とりあえず何も考えず碧也版を新刊で全部買え」と薦めている人は出版社の工作員か?それと図書館へ行けば良いのにいきなりアマゾンで岩波文庫全巻を購入する猛者もいた。
八犬伝の場合は良サイトも多いし、安能版に汚染されまくっている封神演義とは違ってネットや書籍の記述も信用できるのに…。
TBS正月ドラマは…色々言いたい事はあるけど私個人は高評価しているし、とりあえずそこまで碧也版臭はしなかったぞ。良くも悪くも玉梓が悪の女大魔王の再話作品。
もう人形劇から35年経っているんだ。そろそろ玉梓が解り易い女大魔王である事が前提で彼女を(あるいは妙椿や素藤を)倒せば全て解決!という形式ではなく、ついてに浜路もそんなにでしゃばらない新しい形の八犬伝再話作品が出てきても良いと思うんだ。
八犬伝再話作品内の女性キャラとジェンターフリー思想に関する個人的な考え。
最後に。玉梓や大塚村の浜路(あとたまに船虫)辺りが原作の出番や役柄のわりに二次作品では幾らなんでも毎回々々持ち上げられ過ぎなのと、ジェンターフリー思想に関する個人的な考え。
再話作品ではどうしても現代的な思想が入り込んでしまうことが多い。これ自体は個人的には不満は無い。
(不満なのは江戸時代の馬琴先生が書いた室町時代が舞台の作品に対して、封建社会がどうの反戦思想がどうのという連中だ。タイムマシンでも出来ない限り物理的に無理だろ)
だから現代の再話作品で玉梓や大塚村の浜路(あとたまに船虫)の3名の出番が増えすぎるのは、ジェンターフリー思想による女性キャラへも活躍の機会を。という考えかと思ったが、絶対違うな。「取りあえず女キャラ出して華を持たせてテキトーに純愛要素入れよう」くらいの意味はあるだろうが。
まずは玉梓。彼女は確かに伏姫のシンメトリー的な悪女でラスボスにまでパワーアップしている。ある意味原作の出番からすれば一大出世だ。しかし彼女は原作では(2番説を取るなら)大輔に匹敵する八犬士のもう一匹の父親で里見家落城を救った忠犬キャラに転生する時点で彼女は充分大物である。
そこをわざわざ悪の女大魔王にする。大輔に匹敵する八犬士のもう一匹の父親で里見家落城を救った忠犬キャラにはしない。むしろそんな説は馬琴先生と役の行者の化身の嘘だ。悪の女大魔王の玉梓こそが現実なんだと言う。
これってようするに「女は女らしくしていろ(悪女は八房に転生するな。女大魔王やってろ)」って事だろう。いや、皆無意識だとは思うけど、ジェンターフリー思想とは真逆を突っ走るよな。思いっきりジェンダーそのものだ。
あくまでそれ単体ならそれはそれで別に良いんだけどね。それで一番困るのが「女大魔王玉梓こそが本来の姿であり、更に彼女がそうなってしまったのは男社会の犠牲者だからだ」という風に、その捻じ曲がった考えから更にジェンターフリー思想に持っていく事だろう。
私は玉梓が八房に転生せず女大魔王をやるのは「女は女らしくしていろ」の考えから来ていると思っているので、上記のような思考を聞くと「逆だろ!?」と思ってしまう。
再話作品の玉梓は非常に複雑な立場に置かれ、しかもそれを見たファンが原作を誤って解釈しかねないので、玉梓の呪いの範疇を真面目に考察した論文が『復興する八犬伝』に載ったのは良いことだと思います。これからはこっち系統の「玉梓やっぱり大したこと無いんじゃないか説」論文が活性化することを願っています。
いや、真面目な話。八犬伝ファン同士でも玉梓をどう考えているかは全く違うもの。かなりディープなファンが八犬士が玉梓と関わり合いがない再話作品を批判していたりするし。原作でも殆ど関わり無えよ…。
私は全訳本から入って原作読んだ組だから、再話作品組とは時々考えが合わないわ……。あんまりにも玉梓を持ち上げる人にはいっぺん八犬伝を何で知ったか尋ねてみたい。
次は大塚村の浜路。
彼女と信乃は娯楽界隈によくある“取りあえずなんでもかんでも恋愛・純愛で全て物事を片付けようとする風潮”の被害者ですね。
人形劇のノベライズ版くらい活発な浜路だったら信乃と相思相愛でも良いんですが、それ以外は原作の信乃と大塚村の浜路・浜路姫の関係性の方が個人的には好きだ。
これもやっぱり「女は女らしく。浜路は烈女なんかじゃなくて淑やかなヒロインヒロインした女の子」という考えでしょうねえ。もちろん皆さん無意識でしょうが。
後、信乃はあくまで孝の犬士なんだから親より女を選ぶ展開は、単なる純愛物というだけでなく八犬伝の展開そのものに対する批判精神を表現したと私は受け取っておく。もちろん皆さん無意識でしょうが。
こう書くと「お前はキモオタ童貞で彼女がいないから恋愛の素晴らしさが解らないんだ!」と中傷されるのが、さも当然の風潮からして間違っていると思う。クリエイターだったらいっぺん恋愛とお涙頂戴に頼らないで作品作ってみろってんだ。
それとも“純愛要素は視聴率を上げる上では絶対必須・必要不可欠。もし欠けさせたら他をどんなに力を入れても全部おじゃんになるくらい視聴率には重要”とでも本気で思っているのでしょうか。視聴者(読者)なめんな。
最後は船虫。
私はTBS正月ドラマ版はかなり高評価している。(玉梓はもう諦めるとして)わりかし原作沿いだし、5時間に治めるには序盤や八犬士の設定を変えるのは必須だが、かなりスマートな改変だったと思う。序盤の普通にやったらこれだけで5時間過ぎる里見家建国物語と伏姫神話を10分で終わらせたのは本当に感心した。
それに八犬士が8人ちゃんと出番があるというのが嬉しい。下手したら信乃と浜路のラブストーリーメインで八犬士が3人くらい消される事も覚悟していた(児童書では案外ある)から。
そして映像も綺麗だからだ。やっぱり原作のあの場面、この場面を映像で見られるというのは良いなあ。
ただ2つだけ不満がある。TBSだから、毎日新聞系列だからどうせ上からの命令で脚本家のせいではないんだろうが、終盤30分延々と反戦台詞で埋めるのと「女の悲劇・男社会の犠牲者」と強調するのは止めて欲しかった。
特にファンタジーだけど一応時代劇で終盤30分延々と反戦台詞で埋めたのは皆唖然としたんじゃないのか?こればっかりは脚本家も演出家もどうしようもない上からの要望だったんだろうなあ。
あと「女の悲劇・男社会の犠牲者」と強調するのは、(玉梓はもう諦めるとして)せめてオリジナルキャラを持ってくるとか、後は道節と関係のある姥雪(十条)一家設定らしいので音音・曳手・単節を持ってくるとか竹野姫を持ってくるとかなら見られたと思うが、何故寄りにもよって船虫なんだ?
まあ何故か邪魔者を始末する役柄になっていた畑上語路五郎しかり、何故か美少年になっていた老下僕の品七しかり、ドラマの方針としてオリジナルのキャラは出したくなかったのかね。単に敵方の女性だからという以上の意味は無いキャスティングなのか?
浜たかやの児童書の船虫も結構良い扱いだったけど、あれは面白かったので、あのドラマの船虫の何がむかつくかと言ったら……、例を挙げるか。
1.友人に元DV被害者がいる。早くに結婚してしまったため学歴は無いが4ヶ国語が操れるので何とか娘一人を育て上げようとする立派な友人だ。でももし語学力が無かったら彼女達母娘は悲惨だっただろうし、実際そこまで技能がある女性はなかなかいないと思うのでDV被害者は本当に大変だと思う。DV被害者は間違いなく「女の悲劇・男社会の犠牲者」だ。
2.ドラマ版の船虫は、ドラマしか知らない人はあれで騙されるんだろうが、どうしてもあの悪女船虫を思い出さざるを得ない。喩えるなら
「男女2人組の通り魔が男子小中学生に切りかかり逮捕されるが、一部の暴走女性団体や女性と女神の区別の付いていない男が、被害者の母親や姉妹に『彼女は男社会の犠牲者なんです。被害者は怪我しただけで死んではいないんでしょう?被害者も男ですし、どうか彼女の罪を軽くしてやってください』と訴えかける。ちなみに加害者の男の方はフツーに重罪」
というような胸の痞えを感じる。たがかドラマ見て「こいつぶん殴っても私が悪いんだよな」という気持ちになったのは20年以上生きてて初めてだった。
いや、TBS正月ドラマ版船虫は名前が船虫なだけで元犬山家の関係者であり姥雪与四郎の娘と言っていた。つまり姥雪(十条)一家が彼女1人に集約したような存在である
浜路も道節とは無関係になっているので彼女も入るかも。
・・・・・あんな使えねえ上にド失礼な女が姥雪(十条)一家+浜路と思うと道節が哀れすぎる。
まさかあの船虫が「可哀想だ。悲劇の女性だ」と言われる時代が来るとは馬琴翁も思ってもいなかったろうなあ。
女性なら無条件で「実は善人」なのか?たまにそういう考えの男の人見かけるけど、そういう人は女性と女神の区別が付いていない場合が多いので一旦女性に絶望したら反動が凄そうで怖い。
船虫はさ、たとえ女性優位社会に生まれたとしてもやっぱり強盗殺人犯になってたと思うよ。
あとがき━━弓張月の話に強引に持っていくために八犬伝の女性の話を延々とした。
悲劇の王女である寧王女はまだしも、白縫が八犬伝の再話作品の女性のような「女は女らしくしていろ」状態の弓張月再話作品(二次作品・関連書籍)があったらどうなっていただろう。
絶対に非常にウザかったろうなあ。浜路が死なない八犬伝より別物だろうなあ。ちょっと違うけど伏姫がめそめそしていたら八犬伝は大変な事になっていただろうし。
やっぱり白縫及び白縫王女は烈女でお願いします。
それにしても図書館5ヶ月閉館は辛いです。おのれ。新装開店?したらあれとこれとそれとと色々使ってやる。
本当は8月中に更新したかったですし、実際8月27日の時点では8割方出来上がっていたんです。しかし観測史上最悪の大水害に思いっきり巻き込まれて遅れました。
何とかこれだけはやっちゃおうと思ったので、色々置いておいてこの弓張月関連書籍(児童書だけ)まとめだけは更新しました。
でも大水害でかなり精神的にすさんでいる状態なので、再話作品における浜路と玉梓(まれに船虫)に対する不満を一気にぶちまけた。
ちなみに何故女キャラばかりかと言ったら八犬伝の男キャラで再話作品で持ち上げられるのは網乾左母二郎くらいしかいないから。あくまで女だから持ち上げられているんだろうなあ。それって思いっきりジェンダーフリー思想とは真逆なのに、「女の悲劇・男社会の犠牲者」とか言って来るので何となく精神的にすさんでいる状態ではぶちまけたくなる。
あと、信乃は大塚村の浜路に恋をする必然性は無いと思うんだ。
ちょっとリアルで大事になっている事と、本館で書いているジャンルで今から旬にはいる物があります。
ですから少なくとも2008年中はもう馬琴作品と封神演義は更新しません。更新予定でも書いていたように、古典系はいわゆる“旬”のないジャンルですから他と比べると後回しにする事は元々決めていました。
それでも更新したいものは沢山あるので、かなりの長期スパンを想定して古典系は続けていくつもりです。